続大人のADHD
で、大人のADHDですが、
6つもあてはまった私。4つ以上あてはまった人は、受診しましょう。と書いてありますが…
受診する必要性を全く見いだせないんです、これが。
たとえADHDだったとしても、今のところ私は
「何もモンダイナイ」
と思っているからです。
チェックして、やっぱり、と思ったのも、
ただの占い感覚です。
AB型って、気まぐれなんですよねーとか言われるのと同じような。
確かに以前は、つらかった、しんどかった。
劣等感に苦しんで、生きづらかった。周りの人と違うんじゃないか、という孤独感が常にあった。
ではなぜ、今の私は苦しくないのか。
不注意すぎるという事実は何にも変わってないのに。
今でも相変わらず、失敗だらけなのに。
人によっては呆れたり、怒ったりされることもありそうなもんなのに。
なぜなら、私はもう、
「自分を責めるのをやめた」
からなんです。
失敗して、恥ずかしくなることはあっても、自分ってダメだなーと思っても、だからと言って、私は自分を責めないんです。
私ダメじゃん(笑)、てへぺろ。
ってやってます。
失敗して、誰かに迷惑かけたら、謝ればいいし、
できないことがあったら、助けてって言えばいいと思うようになったからです。
自分は、それでも愛されてるし、価値があると思っているし、
私が一番、私自身を受け入れているからです。
発達障害とか、障害と呼ばれるもので苦しんでいるのは、治療やさまざまな療育で軽減されるでしょう。知識を得ることで、楽に生きられるようになるし、
できないことができるようになったり、行き届いたケアをしてもらえたり、とても大切な取り組みです。
でも、本当に根っこの部分の苦しみは、
「自分で自分を責める」
のを辞めるだけで消えるのだ、と私は思います。
どう考えても、幸せとは主観的なものでしかないから。
苦しいと思うのも、すべては結局、自分が作り出した苦しみ。
障害があるから、苦しいのではない。
障害がある自分をダメだと責めるから苦しい。
障害があろうが、なかろうが、
「ダメな自分は責められて当然」
という前提で考えてしまうなら、どんなにすごいことが出来る人でも、
生きるのはとても苦しい。
これは、障害に限ったことではなくて、
過去にある出来事で「責められた」
ことがある人が、
「また責められるんじゃないか」
と怖れる気持ちから、
自分で、自分の気持ちを押し殺そうとしたり、責めたりしてしまう。
誰かから、傷つけられるのが怖いから、
傷つけられる前に、
自分で自分を責めて、
行動範囲を狭めて、
少しでも傷を浅くしようとする。
それは、
ただの考え方のクセのようなもの。
本当は、誰も責めていないのに、
何かやろうとすると、
「責められるんじゃないか」
と、無意識に自分を責める。
でも、それは事実ではありません。
そう考えるのはただの無意識的なクセ。
無意識って、意識の何百倍も力があって、すごく根強いらしいんです。
ちょっとややこしいこと言いますが、
無意識的なことは、言語化すると、意識っていう領域に引っ張ってこれるんです。
言語化って、言葉にする、ということですが、ただ「気づく」だけで、頭の中で言語化されます。
もちろん、口に出したり、書いたりすると、いっそう意識できます。
つまり、「気づく」と「変えられる」
のが、無意識。
だから、そのクセに気づいて、意識的に、無理やりにでも、
「自分は生きているだけで価値がある」
ということにしてしまえばいいのです。
自分が自分であることを完全に受け入れると、
覚悟するだけでいいのです。
理想を追い求めて、苦しくなる前に、
どんな自分でも受け入れると、
自分を許して生きていこうと、
決めればいいのです。
理想を持つのはいいことだけれど、
自分を受け入れていないのに、高い理想を持つと、それは自分を苦しめるだけになったりするので。
そして、
現実的に
楽をしようと思ったら、誰かの手を簡単に借りればいい。
幸せになりたかったら、孤独になるのをやめればいい。
本当は誰も責めてなんかいません。
責められた、と思うとき、本当に自分を一番責めているのは自分です。
努力して乗り越えることができることもある、でも、努力してもどうしようもないものもある。
それをひっくるめて、
「大丈夫」、「それでもいいんだ」と思えたなら。
きっと、本当にどんな自分でも「あり」だと思えたなら、
たとえ、実際に自分を責めてくる人がいたり、嫌ってくる人がいても、
そんなものは「屁でもない」
と思えるんです。
最終的にじゃっかん下ネタ…
すみません。
ああ、責めないで、、、
何もできなくても、愛される存在だから。
「助けて」
って簡単に言える人になると楽。
人って案外優しい。
そして、もしも傷ついたら、
また立ち直ればいいだけ。
子どもみたいに
昨日は泣いて、今日は笑って、
シンプルに、軽やかに、ただ生きていくだけ。